、うみ、海いこう!」


一が突飛なことを言い出すのは今にはじまったことではない。 すっかり慣れっこであり、突拍子もない彼の言動を咎めつつもひそかに愉しんでいる私はその台詞に従って自転車の荷台に跨がった。 小一時間前に漕ぎ出されたペダルは停まることなく、軽快に廻り続けている。


「なんでまた急に海なの?」
「あー?なんか言ったかー?」
「な・ん・で・う・み?」


坂道をくだってくだって。私が発した声はその場に置いていかれたようで、一にはよく聞こえなかったらしい。 留まる空気の中を通り過ぎる時、私の髪は緩やかに舞い上がった。その感覚が心地よくて、静かに目を閉じた。
彼が突発的な行動を取るときは毎回、何かしらの理由があるのだけれど。今日は一体何が理由か。 少し考えると思い当たる事が、ひとつ。


ー」
「なーにー」
「なんかよく解んねぇけど、」
「うん、」
「元気だせよ、なっ」


ほらやっぱり。ストリートファイトなんてやってる癖に他人に気を配って。 ここ最近元気がなかったのは事実だけど一にそんな素振りは見せていないはず。それなのに気付かれたのは何でなんだか。 草薙一という人間がよく分からなくて、小さく喉を鳴らして笑った。

住宅街の隙間から射す夕日がひどく眩しい。前もこうやって海に行こうって出掛けたなあ。あの時は何があったんだっけか。 昔より少しだけ広くなった背中にしがみつくようにして寄り掛かった。


「はじめ!」
「んー?なんだー?」


不意に背中に呼び掛けるとその背中がぐるりと回転しかけた。「ま、まえ向いて危ない!」 慌てて振り向けないようにきつく腰に巻き付け、腕に力をこめる。そのまま額を背中に付けて呟いた。


「…ありがと」
「…あ、あぁ」


ぶっきらぼうに響いた声に目を細める。一がふっと息を漏らした音につられて私も小さく微笑んだ。

海までは、まだまだ遠い。



ヴァーユの吐息