日常のなんでもない些細な事に喜びを感じられるのは実に幸せな事だと思う。
そして、私は間違いなくその部類に入るだろう。

奥の通路を横切った緑髪を見て思わず頬が緩んだ。抱えているファイルの束をしっかりと抱き直してから慌ててこそへ向かって走る、はしる。


「あの…っ、」
「ん…?あぁ、君か」
「はいっ!これ、頼まれていた資料です」
「ご苦労様。ありがとう」



ふわり、甘い容姿で微笑んだその姿は仮にも女である私なんかよりずっとずっと美しくて。思わず見とれていた私は目前を往復する彼の掌によって意識を此方に引き戻された。


「大丈夫?起きてる?」
「あ、はい!だいじょうぶ、です!」


急がせて悪かったね、と慌てる私に声を掛けてから軽く書類に目を通し始めた。一変して真剣な眼差しが、私を見ているわけでもないというのに直視出来なくて右上へ視線を泳がせる。
粗方読まれた紙束を整えてから再度私に、不自然に天井を見つめている私に目を移したようで視線を感じた。慌てて彼の方に向き直ったけれど時すでに遅し。怪訝そうな表情がこちらを向いていた。


「やっぱり寝不足なんだろう?これ、急いで作るよう言ったから…」
「え、あ、いや、そんなことは…っ!」


ないです!そう叫ぼうと口を開けた瞬間、ぽすん と頭にに温もりが降ってきた。驚きのあまり開けたまま収拾のつかなくなった口がぱくぱくと動く。


「今日はゆっくり休むといい。僕の方から言っておくから、ね」
「…は……」


ぽんぽん、軽く2、3度頭を叩いてから彼は踵を回転させた。


「あ、アコース、さん…っ!」 「なんだい」
「これから…査察に向かわれるんですか?」
「うん?そうだよ」


数日前から左腕に巻かれている包帯が目に入った。確かそれは、前回の査察で負ったもの。戦闘要員でないのに怪我をするような仕事だなんて、何を調べているのか。
以前尋ねた時は「これは僕の仕事だからね」と言って教えてはくれなかった。


「…、あのっ、」
「…なにか?」
「…お気をつけて」


精一杯の気持ちを込めて言った言葉に、心底驚いた表情をされるとは思ってなかった。…そんなに変なこと言ったかな。
不安になったのが顔に出たのだろう、なんでもないよ と笑われた。なにか言い返そうと思って口を開きかけたものの、言葉が出てこない。 肝心な時にお得意のお喋りが生かされないなんて、   と、頭頂部に感じた微かな温もりによって間抜けに開いた口を閉じることとなった。



くしゃり。私の頭を潰したその大きな手をいつか掴めるように。肩を並べられるように。 恐る恐る見上げたその人はずっとずっと遠い人で。
心臓の音が厭に早い。なんだか無性に泣きたくなった私は、潰された頭を抑えてうつ向いた。



これは恋じゃない、真逆にある憧れなんだ。遠ざかる靴音を聞きつつ自分にそう言い聞かせながら。


gemmazione